Life is a Flower.

詩の話とかWebっぽい話とか、とにかく雑多に。

2004年02月16日

あ〜あ。

身の回りに見かけるマニアたちの中では、文芸マニアが一番近づきたくないマニアだ。というのは、彼らは難しい言い回しとか専門用語を使ったり知識をひけらかしたりするのだが、結局のところそれは自らの文芸に対する愛玩であり、何も言っていないに等しいからである。

疾風怒濤 2004/2/16 Mon 1:16:46

言っちまいやがった(笑。でも同感。

これ、分析するに、書き手立場の人たちで成立するコミュニティに私も松田くんも片足突っ込んでるから特にそれを感じるんだと思う。

基本的に書く人と読む人の間にはしっかりと壁があるんだけど、書く人はその壁が(ほとんど)ないと信じて疑わない人が多い。で、壁がないと信じて疑わないから受け入れられようとすると決まって書き手視点の苦労話だったり、技術論をひけらかすんだけど(即ち同情に近い感情を惹こうとする)、読む人の立場としてはそんな事どうでも良いんだ。むしろ嫌みっぽく聞こえると言うか、自慢してるようにしか映らない。だから余計に引かれる。

あと個人的に思うに、この文芸創作を巡る構図の特異性も一つの一因なのかもしれない。

例えば私、数年前までVirtual Fighter / Virtual-ONなどのSEGAの対戦ゲーム中心に日夜ゲームセンターに通ってたゲーマーというか言わばマニアで、常連ともなると一つのゲームの同好が集うコミュニティが成立してゲームセンター自体がそういった動向の社交場のようになるんだけど(少なくともそういう感覚がある)、全てはそのコミュニティ内で始まり、終わることが多いものなの。

ある程度腕が上がると少なからず観衆が集まるようになったりするもんで、観衆のウケを狙うようなプレイをしてみたりとかってのもあるんだけど、飽くまでもそれは一つの自己満足で、観衆の「こういうシーンが見たい」→「それに応える」っていう構図は特別には存在しない。厳密にはある程度ゲームセンターに集う人間には、それなりに誰がどんなプレイをするのか知っているので、それぞれの好みや目的に応じて人が集うようになる(故に観衆の「こういうシーンが見たい」という欲求はそういう指向のゲーマーを追うことで自然発生的に見られる)。んで、また集う観衆っていうのもゲームをやっている人間である場合が圧倒的に多い(必ずしもそのゲームをやってる人だとも限らない。そのゲームについては見るのが好き、という層も少なからず存在する)。

これに対して文芸創作の場合、その創作物の対象は読む人だ。この読む人という層は、必ずしも同一コミュニティ内の創作者とは限らない。故にコミュニティの外へ如何に露出させることができるか、が焦点になってくるケースが多いわけ。

この時に問題になってくるのが創作物の対象の捉え方。完成して作品を公開した段階で手を離れる感覚があるからか、コミュニティの内外を問わず対象を一元化してしまう傾向がある。普段どっか拠点となるBBSやメールでコンタクトを取っている別の創作者も創作者本人が想定している一般論としての読者層もまるで同じものだと考える。ないし、そういう傾向が強い。

理由は分からないです。が、ここを考えないから受け入れられないんじゃないかと思ったりもする。

けど、別のケースで思ったところがあるんだけど、例えばゲームを作ったりして「敵が多数出てきた時に発生するコマ落ちする際の対処が、云々」なんて話、同好向けには苦労話としてするのかもしれないけど、1ユーザーに向かっては普通しないよね? なんで文を書く人はそういう話を一読者にしたがるんだろう? まぢで。

投稿時刻: 03:51 | カテゴリ: /poem | 固定リンク

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