詩の話とかWebっぽい話とか、とにかく雑多に。
2003年08月05日
ノンフィクションという幻想のステータス
実話が何らかの作品の素材になりうるのは確か。それに疑う余地は無い。が、例えば作品が事実を元に語られているということを誇ることに一体どんな価値があるというのだろうかという考察。
こういう切り口で語られる際、大体のケースで「フィクション<ノンフィクション」という構図が前提にされる。即ち作り物にはないリアリティがそこにあるという主張な訳だ。
本当にそのリアリティとやらがあれば良いんですけどね(苦笑。
- ノンフィクション
- (英nonfiction)虚構(フィクション)を用いないで事実をもとにして書いた散文。伝記、紀行、ルポルタージュなど。
Microsoft/Shogakukan Bookshelf Basic Version2.0
と引用するだけしておいて、特に必要なかったなぁと思いつつ、ノンフィクションにしても、前の作品が事実を元に語られている
にしても、飽くまでも事実が元になっているだけで、そこにリアリティが介在するかどうかという部分は実は別問題で、えてしてそういう基本的な部分に思慮が欠落するケースが多いまま、「フィクション<ノンフィクション」と語られるのはどうだろう?という疑問がよぎって仕方がないの。
作者にとって多少の言葉の装飾を付け加えてたとしても、それがリアルそのものであるのかもしれないし、そう信じたい気持ちも分からないわけではないんだけど、それを訴えるだけでは受け手には全てが伝わらない。
それはなぜかって、言葉という伝達手段によって情報が欠損するからではなく、大半が、もといほぼ全てが伝えている情報そのものがそもそも欠落しているに他ならない。
事実を元に語られていることを自身の作品のウリにしたいなら、最低限心がけて欲しいことがある。その時の感情を語るのと同時に
- 自身が、あるいは作品の主人公がどういう過去を持っているか?
- その過去のうちのどんな事実が、その時の感情と結びつきうるのか?
- 2.の感情の結びつき方が客観的に見て理解できるものなのか?
それすら語れずに一方的に自分、もとい主人公が「〜〜だ」と感情をぶちまけるだけだから、時に「薄っぺらい」とか「世間知らずだ」とか酷評の限りを尽くされる。逆に本当にそこまで自身を晒すことができるのなら、作品の出来云々以前に有無を言わせぬリアリティが受け手を圧倒してしまう。
事実を語るということはそういうこと。本当にその覚悟はあるのかな?