詩の話とかWebっぽい話とか、とにかく雑多に。
2003年08月10日
創作memo -明日-
F.y.と詩人ギルドに投稿している(ウチからはリンクを張ってない)『明日』ですが、F.y.でのレスをちょっと考えてみる。
この作品、元々は以前ウチに置いていた返詩板に返した作品なんで、単品として投稿するには弱いんですよね。レスでも書いているんですが、状況説明等は全て返した元の作品が補う形になってしまうので。
これもレスで触れてますが、返詩であることを差し引いて私的には
- スケールとしては小さめ
- その分キーワードが減るので構成でそのキーワードを浮き彫りにする
- 受け手との間に関連性が断たれない程度の距離を保ちつつ抽象的に
辺りが私の中でのテーマだった、というかむしろ
文量が小さいので構成が鍵だって言うのがまず最初にあって、発想点は
鮮やかに約束された
明日という日なんだけど、“明日”には対比で2連目が絡めて、3連目も“鮮やかに約束された”で収束される連を入れよう(対比を連続した連で行なうと作品が小さく見えるのと、対比を使うことの効果よりも、対比という技法を使っているという事実の方が目立ってしまうのでワンクッション入れるという意味を込めて)、っていうのが最初の段階からありました。
とレスを返した通り、一番最初に浮かんだ最終連の部分だけで全ての構成は決まっていたのですが。
ただあんまり抽象的だとそれのどこが「明日」に繋がるのかなんて分かんないような意味不明になる可能性が大きいんで、「君」を使って形を限定してみたんですが、逆に
詩の中の「君」に読み手が自分を置けるかどうかがすごく重大なんじゃないかと思いました。
と捉えられることになったわけね。その捉え方自体は別に問題ではなくて、それどころか一般的にこれが正しい認識ではないかと思うんだけど、私の中では今回のテーマと前の受け手との間に関連性が断たれない程度の距離を保ちつつ抽象的に
は両立できない、あるいは一般受けに媚びるかその逆を進むかの二つに一つしか存在し得ないんじゃないだろうかという疑念が湧いたの。
一つに喜びや希望、幸福せって言ったものは個々の価値観から更に多様に広がるものなので、抽象化や比喩に結びつくような置き換えによってイメージの多様化を図ろうとするのはちょっと難しいかなと思ったのよ。
そもそも抽象化と限定のさじ加減が繊細な上に、私の中に「君」という単語が与える効能についてかなり過小評価していた部分もあるんだけど。それなら更に別のものを置き換えて、となると私にはもう手が付けられない印象。
その結果、ある黄金律に沿った展開でないとこの手の作品が一般受けするのは難しいかなぁ、という今のところの結論。
この手の作品を一般受けさせる黄金律って言うのは2パターンあって、一つ目が全くのヒロイックもの。超人的な才能に純粋に憧れさせるタイプの展開の、言わば一つのストーリーテラー。私の指向にはちょっと合いませんが。
もう一つが受け手の同情を引くパターン。極限の状況から人並みに生きるべく前を向く姿勢を焦点に当てるテーマがそれに当たるんだけど、このタイプって私、大が付くほど嫌いです、同情って基本的に相手を見下すための感情なんですよ。
そういった形の作品に巡り合って、思うところができたとしても決してその作品の主人公と同じ境遇にはなりたがらない。自分より下があることを見せることで受け手にゆとりを作って「頑張れって思う」→「自分も頑張ろうと思う」って言う構図は興行的な作為がある場合ならいざ知らず、そうでない場合は反則なんじゃないかなって思うんです。
太陽は地に沈んで月を照らすのが一番美しい形かもしれない、となんとなく考察してみた今晩。